トヨタとヤマハが持てる技術の粋を持ち寄って作り上げた珠玉の名車。あのスパイ映画にもフィーチャーされた、日本が世界に誇るスポーツカーです。
ニッポンが生んだ世界に誇る歴史的スポーツカー
トヨタが初めて本格的なスポーツカーにチャレンジしたエポックメーキングなクルマ。
どの角度から見ても流麗なデザインがまず目を惹きますが、メカや内装も世界レベルで一級品の風格を感じさせる仕上がりになっています。
ヤマハ発動機との共同開発
トヨタはスポーツ800(通称ヨタハチ)でライトウェイトスポーツカーをヒットさせました。
しかし、日産のフェアレディやホンダのSシリーズの評判を目にして忸怩たるものがありました。
是非ともイメージリーダーたりえるスポーツカーを手にしたいと、2,000cc超級の本格的スポーツカーの開発に着手。
ところが、設計までは順調に進んだものの、生産拠点の問題で先行きに暗雲が立ち込めました。
そこに舞い込んだのがヤマハ発動機との提携話でした。
高性能四輪車の開発に邁進していたヤマハでしたが、経営上の問題もあり市場投入が夢と消えそうになっていました。
起死回生を狙い、ヤマハの川上社長はトヨタに打診すると両社の思惑がみごと一致し、互いのプロジェクトは共同開発という形で息を吹き返したのです。
モーターサイクルで培ったヤマハ発動機の高度なエンジン開発製造技術に、ヤマハの楽器製造のノウハウを活用した木工技術を投入。トヨタはトランスミッションやデフ、ドライブシャフトなど駆動系の設計製造を担当するといったフォーメーションで開発が進み、無事完成に漕ぎつけたのでした。
世界記録を塗り替えた
谷田部の自動車高速試験場でのスピードトライアルは、2000ccクラスで国際記録を樹立するのを目指し、当時のトヨタワークス(チームトヨタ)によって行われました。
ワークスドライバーたちが交代でステアリングを握り、6時間・12時間・24時間・72時間の平均時速がすべて200km/hを超え、その結果は当時の世界速度記録の13項目を塗り替えるものでした。
それまでトライアンフやポルシェが保持していた記録を更新するさまは、ドキュメンタリー映画にまでなって日本中を熱狂させたのでした。
比類のない美しさ
1967年の発売時、当時の日本では考えられないほど流麗で美しいスタイルだったため、海外の著名なカーデザイナーの関与が噂されていました。
ところが実際には、トヨタのインハウスデザイナーである野崎喩氏らによるデザインだったと言われています。
当初、ヘッドライトを低く配置するべくフロントのデザインがなされましたが、当時の安全基準ではこのグリル両側の低い位置は認可されませんでした。
そのためリトラクタブルタイプのライトが追加されることになりました。普段見えているフロントの2灯はフォグランプなのです。
結果的にこれが他に類を見ないコンセプトになり、特徴的なフェイス回りを作ることになったのですから、何が幸いするかわからないものですね。
ボンド・カーにもなった?
日本が舞台になったジェームズ・ボンドの『007は二度死ぬ』に2000GTが登場したのは有名な話です。
実は、大柄なショーン・コネリーには2000GTはコンパクトすぎるため急遽オープンカーに改造することになったといういわくつき。車内に収まらないならルールをとっぱらっちゃえ、というのはいかにも乱暴な感じもしますが、今となっては楽しいエピソードですね。
ただしこのスペシャル2000GTは日本の諜報組織のクルマという設定でした。しかも運転していたのはジェームスではなく若林英子演じるヒロイン・アキ。なので、厳密にはボンド・カーとは呼べないのですね。
データ
- 販売期間:1967年~1970年(昭和42年〜45年)
- エンジン:直列6気筒 DOHC 1,988cc、直列6気筒 SOHC 2,253cc
- ホイールベース:2,330mm
- 全長:4,175mm
- 全幅:1,600mm
- 全高:1,160mm
- 車重:1,120kg
管理人のつぶやき
現代のクルマのデザイン、心を動かされるものが少なくなりました。外国車も含めてですね。2000GTみたいなクルマがどうして出来ないのか、と思ってしまいます。
なんかどのクルマも似たり寄ったりになってしまって、エンブレムやバッジを取り去ったらどのメーカーのものか見分けが付きにくいです。
デザインに関しては昔の方がはるかに色々な制約が多かったはずなのに、逆に各メーカーの個性が出ていました。不思議なものですね。